プトーコス:貧しい人
「貧しい」と訳されたギリシャ語は、「プトーコス」と言う言葉ですが、
ヘブライ語まで遡ると、「神に対して謙虚な」=「敬虔な」(humble)と言う意味のようです。
山上の垂訓を記録したマタイ伝5:3には、「心の貧しい人」と言う訳語が、書かれています。
マタイ5:3 心の貧しい人々は、幸いである(心の貧しい人は幸いです)。(Blessed
are the poor in spirit,)
しかし、ルカ伝6:20では、単に、「貧しい人々(貧しい者)」
ルカ 6:20 貧しい人々は、幸いである(貧しい者は幸いです)。(Blessed are
you poor,)
ルカは、護教的、宣教的に、経済的に貧しい人を取り込む目的で、あえて、「心の貧しい人」と、伝えなかったのかも知れません。
しかし、「心の貧しい人」が、何故、幸いなのかと言う疑問を、払拭出来ません。
通っている教会の牧師さんの説明では、マタイ5:3の「貧しい」と訳された箇所は、ギリシャ語では、「プトーコス」(пτωχοs:ptochos)と言う言葉で、書かれているそうです。
ギリシャ語の「プトーコス」(пτωχοs)は、英語の「humble」(謙遜な、へりくだった)と言う意味だそうです。
ですから、「心の貧しい人」とは、謙遜に、謙虚に、己の無力さを知り、虚心に、神の言葉に従い、神により頼む人を意味しているようです。
新共同訳新約聖書略解には、「《心の貧しい人々》は、ルカによる福音書での《貧しい人々》が端的に経済的困窮者を指すのに対し、精神的な意味を深めた表現であり、自らの内に救いの可能性を全く認め得ない人々、神にのみより頼まざるをえないことに気づいている謙虚な人々を指す」と、説明されています。
ですから、「心の貧しい者」とは、「謙虚に神の言葉に耳を傾ける人」と言うような意味なのではないかと、私には、思われます。
通っている教会の牧師さんの説明では、マタイ5:3の「貧しい」と訳された箇所は、ギリシャ語では、「プトーコス」(пτωχοs:ptochos)と言う言葉で、書かれているそうです。
ギリシャ語の「プトーコス」(пτωχοs)は、英語の「humble」(謙遜な、へりくだった)と言う意味だそうです。
ですから、「心の貧しい人」とは、謙遜に、謙虚に、己の無力さを知り、虚心に、神の言葉に従い、神により頼む人を意味しているようです。
新共同訳新約聖書略解には、「《心の貧しい人々》は、ルカによる福音書での《貧しい人々》が端的に経済的困窮者を指すのに対し、精神的な意味を深めた表現であり、自らの内に救いの可能性を全く認め得ない人々、神にのみより頼まざるをえないことに気づいている謙虚な人々を指す」と、説明されています。
ですから、「心の貧しい者」とは、「謙虚に神の言葉に耳を傾ける人」と言うような意味なのではないかと、私には、思われます。
詩篇25:9 主は貧しい者を公義に導き、貧しい者にご自身の道を教えられる。
この詩篇25:9の「貧しい」は、ヘブライ語の聖書では、「wn"['」と言う言葉が用いられています。
「wn"[」には、「謙虚な」、「へりくだった」、「貧しい」と言う意味があるそうです。
詩篇では、「心の貧しい」と言う意味の言葉(wn"[)が、12カ所で、用いられています。
詩篇69:32 心の貧しい人たちは、見て、喜べ。
この詩篇69:32の「貧しい」と訳された言葉も、ヘブライ語の聖書では、wn"[が用いられています。
心の貧しい人=(神に対して)謙虚で、へりくだった人、が、幸せになると言うことだと思われます。
詩篇 37:11 貧しい人は地を継ぎ(しかし、貧しい人は地を受け継ごう)。(But
the meek will inherit the land)
この詩篇 37:11で、「貧しい」と訳された箇所は、英訳の聖書では、「meek」(柔和な)と言う言葉が、用いられています。
実際に、口語訳の聖書では、
詩篇 37:11しかし柔和な者は国を継ぎ、
と訳されています。
英語の「humble」には、謙遜な(卑屈な)と言う意味以外に、(身分・地位が)低い、卑しい、みすぼらしい、粗末なと言う意味があります。
なお、詩篇 37:11に用いられた「meek」は、柔和なと言う言う意味以外に、気質が、我慢強く、大人しいと言う意味以外に、自尊心がないと言う意味もあります。
因みに、マタイ5:3の「心の貧しい人」は、漢訳聖書では、「虚心者福矣」と訳されているそうです。
日本語訳の聖書では、英訳の聖書の「poor」と言う言葉を直訳して、「貧しい」と訳したのでしょうが、英語の「poor」には、みじめな、不幸な、哀れな、かわいそうな、と言う意味もあります。
ドイツ語訳の聖書では、マタイ5:3は、「Selig sind, die da geistlich arm
sind;」であり、「arm」と言う言葉が、使用されています。「arm」は、1.貧しい、乏しい、2.気の毒な、かわいそうな、あわれな(哀れな)、3.卑しい、と言う意味があります。
少なくとも、「貧しい人」は、必ずしも、経済的に貧しい人をは、意味しないようです。
詩篇 51:19 しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。
打ち砕かれ悔いる心を
神よ、あなたは侮られません
民数記12:3さて、モーセという人は、地上のだれにもまさって非常に謙遜であった。
この「謙遜」と言うのも、「貧しい」(wn"[:神に対して謙虚な、へりくだった)と言う意味のようです(モーセは、非常に敬虔な人だったと言う意味だと思われます)。
聖書には、「貧しい人」と言う言葉が、良く出て来ますが、多くの場合は、「金銭的に貧しい人」と言う意味ではないです。
賛美歌第313番 …われはきくなり/主のみこえを
参考文献
・日本聖書協会の新共同訳聖書
・日本聖書刊行会の新改訳聖書
・フランシスコ会聖書研究所(サンパウロ発行所)の新約聖書
・新共同訳新約聖書略解(監修山内眞、日本基督教団出版局、2000年)