ARROWS Oisix(おいしっくす)

 祈りは神に聞かれる?

 信仰をしていると、必ず、「神から見捨てられる」、「神から殺される」と言う試練が、来るようです。
 試練と言う言葉の意味は、「信仰、決心の堅さや実力などを、厳しく試すこと。また、その時に受ける苦難。」との事。
 試練は試しで、神様を信頼させない試しであり、人は、試練があると信仰が無くなる、試練があると神様から遠ざかる、試練があるとがっかりする、神様は何もやってくれないと思う存在です。しかし、試練を受けて、信仰の対応をとる(祈ったりする)と立て上がり、問題や困難の中で主の素晴らしい栄光や恵みや業や祝福を見るそうです。
 試練を受けて信仰の対応をとった人が立て上がるそうです。
 神は、無条件では、人を救ってくれないようです。

 試練や困難を与えておき、救ってくれると信頼させたり期待させるが、祈っても祈っても祈っても献金しても何も起こらないとしたら、無責任で悪徳な宗教で、神様の悪意を感じてしまいます(涙)
 元々、病気になったり、罪を犯す存在として人間を創っておきながら、病気や困難の時に、救いを求めても、聖書に書いてあるような救いが起こらないとしたら、神様は悪質であり、宗教は詐欺だと思ってしまいます。
 自分の弟子(ユダ)が、悪魔に憑依されても放置する教祖(イエス)や、自殺しようとしても黙って見ているだけの神は、正しいのか、疑問に思われます

 パウロ秋元牧師(主の十字架クリスチャンセンター東京アンテオケ教会牧師)の「祈りは聞かれる」(全5巻)の読後感想です。

 祈りは聞かれる 1
 ・詩篇6篇9節 主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。(新共同訳:主はわたしの嘆きを聞き/主はわたしの祈りを受け入れてくださる。)
 私は、教会に通い始めた頃、祈りが神に聞かれないとは思っていなかったのですところが、予想に反して、祈りは聞かれなかったのです。自分のように、殆どのクリスチャンは祈りが聞かれないことを体験していることを知り、失望すると同時に、安心しました。
 しかし、むしろ、祈り求めたことと反対のことが起こるようになり、厄病神に取り憑かれてしまったと、感じるようになりました。
 信仰とは、一種の神による虐待(ネグレクト)であり、虐待に耐えることの出来ない人間は、信者として勤まらないのではないかと思うようになりました。同時に、このように神様が信者に対応しているようでは、教会から去って行く信者が多いのが、当然だと思うようになりました。
 人間の側から、神に愛想をつかしてしまうのは当然の成り行きです。騙されたと思い、無神論に傾倒する信者が出ても、仕方ないのです。何が起こっても、何も起こらなくても、神を信じる(信頼する)と言う事は、普通の人間には、難しい事です
 神の実在や言葉の成就を体験出来ないと、信仰は神による虐待(ネグレクト)になり、聖書の言葉は有害な妄言になってしまいます。元信者の人などのこの宗教(キリスト教)や教祖(イエス)や神に対する評判が悪いのは、人間として理解出来ます。聖書を読んでも、信者にならない方が賢明かも知れません。
 薬には、効能と副作用が注意書きされていますが、聖書も、予め、「この本を読めば、信じれば救われて天国に入れる人もいるかも知れませんが、信じても救われずに、殉教したり、神に打たれて死んだり、悪霊にとり憑かれて自殺したり、発狂する人もいますから御注意下さい」と注意書きして置いて欲しいです。迫害されて、十字架に付けられて殉教しそうになった時に、神様から救って貰えなかった信者は、殉教を免れた時には、二度と、信者に戻らないでしょう。
 神が悪なる人間に天から審判の災いを下した過去の聖書の記録を真似て、米国が、日本の広島や長崎に空から原爆と投下しても、自分たちは、神になったように感じることはあっても、被爆して亡くなったり苦しむ人々に対して、罪意識を抱く事はなかったのでしょう。
 この宗教(キリスト教)や教祖(イエス)は、無責任で、悪質で、有害な点が多いと感じることがあります。だいたい、自分の弟子が、悪魔に取り憑かれても、黙って見ていて、自殺に追い込むような教祖や神には、人類を指導したり救う能力や指導力(リーダーシップ)があるとは思えないし、無責任だと思います。自分の弟子を自殺に追い遣ってしまうようでは、愛があったとは言えないと思います。会社だって、リストラされた部下が自殺した場合は、上司の責任が問われます。だいたい、有史上、悪魔に直接憑依された人物は、ユダ以外にはいないでしょう(聖書的に悪魔側と見做される宗教や国家はありますが・・・)。ユダは、ある意味で、有史上、稀な、悪魔に直接憑依された被害者でしょう。自分の弟子が、悪魔に憑依されても、悪いのは、悪魔から守ってやらなかった教祖でなく、裏切った弟子なのです。
 ・詩篇15篇3節 その人は、舌をもってそしらず、友人に悪を行わず、隣人への非難を口にしない。

 イエスのような手法では、敵は作るが、味方は作れないのです。「敵を愛せよ」と言いながら、他の宗派(律法学者など)を批判・非難したから、敵を作ってしまったのです。ですから、歴史的に、キリスト教は、宗派が異なると、敵対してしまったのでしょう。
 この世では、教会は、殉教者の霊は、天国に行ったと説明し、死後、聖者として、称えます。しかし、信者は、迫害に合って、十字架の上で苦しみ悶えても、イエスのように自分で心臓を止めて楽になることは出来ず、苦しんで死んで行くので、怨霊となって、死後も、この世を彷徨う信者の霊が多いのです。
 神様やイエス様は、いつも、「正しい」のです。そして、悲しい事に、神を罰する法律は、この世には、存在しないのです。神様やイエス様は、俗人のように、絶対、裁かれる心配はないのです。イエス様が、宮清めで商売人の道具を壊しても、罪に問われる心配はなのです。イエス様の語ったようなことが現実に何も起こらなくても、「詐欺だ」と言われる心配はないのです。「悪い」のは、いつも、信じない人間、あるいは、信仰が足らない使徒、あるいは、反対するユダヤ教徒の方なのです。この現実に、多くの信者や俗人は、苦しむのです。
 牧師に従うように信者を教育し、その牧師が悪霊に取り憑かれていて、信者が間違ったことをしても、神様やイエス様は「正しい」ので、責任を取ってくれないのです。
 いつも、父親から冷たく突放される事が好きな人には、御勧めな宗教ですが、いつも、母親から受け入れられたい人には、仏教の方が相応しいでしょう。聖書を読んでも、キリスト教に入信しないで、仏教などに入信したり、新興宗教に入信する人がいるのが、理解出来ますし、その方が、賢明かも知れません。。
 「宗教は阿片」だと言った人がいますが、神の業や救いを実感出来ない信者には、「宗教は有害毒」になってしまいます。

 ・詩篇35:17 わが主よ。いつまでながめておられるのですか。
 こんな対応をしていると、一般社会からは、愛想をつかされても仕方がないのです。今の日本の一般社会の企業なら、直ぐに対応してやらないと、御客は、他の企業に取られてしまいます。いつまでも、御客様は、待ってくれないのです。こんな対応を長くやられると、普通の人なら、愛想をつかすか、だんだん、人間性がおかしくなるのです。
 人参を目の前にぶら下げて、飛び付こうとすると、上に持ち上げてしまうような手法は、悪質だ、悪徳だ、と言われても仕方ないのです。
 明日には、天国が来ると言うような事を言い続けて、何も起こらなければ、「詐欺だ」。「騙された」と言われても、仕方ないのです。でっかい事を言っても、何も起こらなければ、誰も信じなくなるのです。
 信じさせて(信頼させて)、期待や希望を抱かせて、いつまでも、約束の業や奇蹟を成就してくれないのは、悪質だと思います。期待や信頼していたのに、いざとなると、見放して、助けてくれないのは、悪質です。信頼させ、期待させ、献金させても、何も起こらないのは、悪徳だと思います。詐欺師でも、そのような虚言は、口にしないものです。信頼や期待させるが、祈っても献金しても、何も起こらないなら、無責任で悪徳な宗教だと思われます。生命保険の契約でも、御金を支払わせておきながら、病気になった時に保証してくれないのは、契約違反で、真実ではないです。
 一般社会の企業なら、1人の顧客も失わず、1つの商品でも買って貰えるように、顧客に親切に対応します。教会も、もっと、信者に親切に対応しないと、信者が去って行って、信者を失うのは、当然でしょう。神様も、高い場所に構えていって「来い」と命令するのではなく、降りて来て「来て下さい」と頼むようになって欲しいです。そうでなければ、笊で水を拾うように、去って行ってしまう信者が多いのは当然でしょう。昔、手かざし系の宗教の癒し会に参加したが病気が癒されず、参加した人が、その宗教の聖本を、駅のプラットフォームに投げ捨てて去っていましたが、人間とはそのような存在なのでしょう。

 ・詩篇10章1節 主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。
 信者を突放したり、子馬鹿にしたり、信じる者が馬鹿を見たり、騙したりするのは、止めて欲しいです。
 信じて献金などをして来たのに、一番、困っている時に助けてくれないような神様では、離反されたり、愛想をつかされるのは、当然でしょう。
 熱心に聖書を研究し、信じて、人に勧めて来た牧師が、ある日、突然、信じるのを止めるような宗教や信仰には、世間の人は、関心を抱かないか、避けるのが、当然でしょう。

 ・ルカの福音書16章28節 私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
 以前、カトリック教会の礼拝に参加した時に、受け付けの若い青年が、「こんな場所に来ては駄目だ」と言うような表情や態度をしたことが記憶に残っています。
 地獄の恐怖や神罰で、食い付いた魚を逃さないようにして、餌を与えず、飼い殺すような事は、止めて欲しいです。
 裏口から入って、正面玄関から、信者が去って行くようなことをしていたら、教会は無くなってしまうでしょう。

 ・マタイの福音書7章7節 求めなさい。そうすれば与えられます。
 逆読みすると、求めないならば与えられない。
 そして、多くの信者は、求め続けても何も(聖霊も含めて)与えられないのです。そして、疲れたり、失望してしまうのです。それどころか、教会に通うようになると、献金などで貢献しても、試練や悪霊が与えられることが多いのです。産で生真面目な信者から、献金で、全財産を搾取してしまう宗教団体もあります。
 マタイの福音書11章29節 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 祈らなければ何も起こらないが、祈っても何も起こらないことの連続に、普通の人間ならば、疲れたり忍耐出来なかったり狂ってしまうのです。宗教的な欝病になったり、信仰が重荷になったり、神に虐待されていると感じる(信仰とは虐待だと感じる)ようになるのです。目の前にニンジンをぶら下げられ、食べられると思って飛びつくと、引き上げられてしまうのです。
 1日1時間、祈る格好をしていると、神の業を体験したりして、変わって行く信者もいるそうです。祈りによって、夢で啓示(神様の言葉)を受けたりして、変えられる信者もいるようですが、「神は死んだ」と思う信者も多いようです。修道院で毎日数時間も祈って、何も起こらなければ、人生の貴重な時間を、労働もせず、無駄に過ごしていることになりかねないです。
 神様から啓示を受けた場合は、それは、必ず実現するので、信じて従っていれば、大丈夫とのこと。

 ・マルコの福音書5章26節 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
 信者によっては、「この人は、多くの宗教家にかかり、祈ってもらったり、本を買ったり、献金したり、教会に奉仕して、持ち物を費やしてしまったが、何のかいもないばかりか、却ってますます悪くなる一方であった。」と言うこともあるでしょう。

 ・マタイの福音書7章9節〜10節 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。
 実際には、パンや魚(聖霊)を求めている祈っているのに、何も起こらないどころか、蛇(悪霊)が与えられることが多いようです。
 
 教会に通うようになってから、いかに、この宗教と神の評判が、一般社会の人や、元信者の人から悪いか、知ることがあります。
 ユダは、(悪魔に唆され、)イエスを裏切って、自殺してしまいましたが、天上天下唯我独尊なイエスが自分の弟子を従わせるリーダーシップが無かったことや、沈黙して見ているだけの神に、責任はなかったのでしょうか?ユダは、聖書の記録が正しければ、人類歴史上稀な、悪魔に憑依されると言う最悪の体験をした数少ない人物の1人です。そのような危険で最悪な体験を自分の弟子にさせてしまったイエスは、師(教祖)としての責任は、感じなかったのでしょうか?この宗教の信者になって、救われる人もいますが、精神や心身に異常を来たす人、殉教する人、などに、神もイエスも、責任を取ってくれないと、困ります。殉教したクリスチャンは、天国を夢見て、早く地獄へ行った可能性があります殉教など、馬鹿で有害な伝統は、止めて欲しいものです。
 新興宗教の方が、信者に親切な教団もありますが、次第に、分裂してしまう教団も多いようです。 
 神のなさることは、古の時代から、天使を悪魔にしてしまうことが多いようです。長年、熱心だった信者に、「神は死んだ」と言われるような宗教は、無力で有害です。

 祈りは聞かれる 2
 ・マルコの福音書11章24節 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。
 受ける前に、受けた信じるなら、受けることが出来る。
 病気の時に、病気が治ったと信じても、もっと悪くなることが多い。
 病気の後に。神の素晴らしい計画がある人は、全てが益となるので、幸い。
 祈り求めても、そのとおりにならず、むしろ、反対の事が起こる時、人は、厄病神が自分をもっと虐めてやろうと、虐待していると感じるようになる。

 ・マタイの福音書7章7節 求めなさい。そうすれば与えられます。
 ギリシャ語の原語では、「求め続けなさい」を意味する。
 祈りの課題について祈り続け、祈り切る必要がある。
 祈るのと、祈らないとでは、決定的な違いが起こる。⇒厄病神に祈ると、祈ったことと、反対の結果が起こる。

 ・テサロニケ人への手紙第一5章18節 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 良い事だけを感謝するのでなく、悪い事をも感謝する。

 ・ローマ人への手紙8章28節 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。
 口語訳:神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて(=召された者たちを助けて)、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。
 悪い事が起こっても、主に従うならば、主は全てを益として下さる。←しかし、世間の人は、信者に悪い事が起こると、神罰が下ったと信者を批判したり、神に裁かれたんだと思い、そんな信者が不幸になる宗教に入ろうとしなくなる。
 祈りを通して、信者は、神の助けや、多くの恵みを得る。

 ・ヨハネの手紙第一5章14〜15節 何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。

 祈りは聞かれる 3
 ・テサロニケ人への手紙第一5章17節 絶えず祈りなさい
 見分けのために祈る:霊的な見分けの必要性。
 祈りによって恵みを受ける。
 祈っているのと、祈っていないのとでは、大きな差が出る。

 祈りは聞かれる 4
 ・ルカの福音書1章37章 神にとって不可能なことは一つもありません。
 祈りを通して、いろいろな神の助けを体験する。
 私たちは、自分の願っていることを最善と考えるが、必ずしも、最善でないことも多い。
 病気になった初めの頃は、祈った後に、すぐ治るどころか、却って、どんどん悪くなった。祈りと逆の事態になる。
 疑いがあるのは、問題ない。祈りは、聞かれるだろうかと疑いつつも、「求めなさい、そうすれば与えられます」(マタイの福音書7章7節)に従い、あきらめたり、失望せずに、祈り求め続けるなら、答えを得る。神の時があり、神は私たちに忍耐することを訓練する。祈りは、どうせ聞かれないと疑い、祈らないことは、駄目(不信仰)。
 ジョージ・ミューラーの祈りに関する本が参考になる。 

 ・忍耐を持って祈り続ける
 試練を通して、忍耐心を鍛え、成長し、神の答えや恵みを受ける。
 神様の忍耐させる試練に、苛立ったり、つぶやいてはいけない。試練は、祝福になるので、感謝して受けないといけない。
 祈りは、時間がかからず答えられることもあるが、忍耐して祈り続けなければならないことも多い。
 神は、私たちに信仰の忍耐を訓練させると言う目的で、神の時が来るまで、試練を与える。
 辛抱(心法)や我慢は、自分で続ける(長続きしない)努力のことで、忍耐は、(神からの)試練や苦難に耐え(品性を高め向上す)ることと、区別する人もいる。(神からの)試練や苦難は、忍耐する(耐え忍ぶ)と良いことがあるそうだ。

 祈りは聞かれる 5
 ・ローマ人への手紙10章11節 彼に信頼する者は、失望させられることがない 
 入信したり、献身の祈りをすると、試練がやって来て、信仰が試され、訓練されるが、主に従う事で、立て上げられる。

 ・詩篇34:9 主を恐れよ。その聖徒たちよ。彼を恐れる者には乏しいことはないからだ。
 IOD. Timete Dominum, sancti eius, quoniam non est inopia timentibus eum.
 伝道者として成功するには、経済的に神に支えられることが必要。主によって、経済的に支えられるには、祈りが大切。
 詩篇34:9は、主を恐れて、献金をする信者にも、適応される。
 借金をしてはならない(御金は人から借りてはいけない)。人に、御金が必要だとか、不足していると言ってはならない。
 実際に必要なことを祈り求める。
 断食祈祷は、神様からするように言われた時だけ、行う。(断食)祈祷で、虚弱体質が強くなった。
 祈りによって、妻の精神病も、癒された。
 祈りは、私たちの人生に、神の恵みをもたらす。

 あるカトリック神父様の御話では、「試練の中にあって、祈るが、慰めは、殆ど来ない。」との御返事。

 神様はサドで試練を与えて人間を苦しめ、信者はマゾでない喜んで従えないのかも知れないと感じてしまいます。

 自分の実の親から、体罰でボコボコに叩かれたことのない私には、試練を与える神様は、体罰でボコボコに叩いて虐待している親か、人間が苦しむのを喜んで眺めている悪魔のように感じてしまうことがあります。

 祈っても、何も起こらないことが続くと、神に期待出来なくなり、「神は死んだ」と言う信者が現れるのは、仕方ないでしょう。
 神様や悪魔の存在の実証は、人間の側から確認困難なので、向こう(神様)から神の業などを通して実証して欲しいです。そうでないと、リバイバルは困難です。
 「信じない人には奇蹟は起こらない」と説教を受けますが、人間の側からは、「奇蹟を起こしてくれたら信じてやる」と言うのが普通だと思われます。

 大きな事を言って実現しないような希望を抱かせたり、人参を目の前にぶら下げて飛び付こうとすると上に持ち上げてしまうようなやり方は、悪質だと言われても仕方ないのです。

 「祈りは答えられるかも知れないが、祈らないと答えられない」と言うのは、「宝くじは当たるかも知れないが、買わないと当たらない」のと同じではないか???

 最後に、聖書の言葉を引用しておきます。
 ・ルカの福音書18章1節
 いつでも(しつこく)祈るべきであり、失望してはならない

 ・詩篇35章17節
 わが主よ。いつまでながめておられるのですか。
 Donine, quamdiu aspicies?

 ・詩篇44章23節
 起きてください。主よ。なぜ眠っておられるのですか。目をさましてください。
 Quoniam propter te mortificamur tota die,
 aestimati sumus sicut oves occisionis.
 
 ・詩篇10章1節
 主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。
 Ut quid, Domine, stas a longe,
 abscondis te in opportunitatibus, in tribulatione?

 ・イザヤ書40章29節
 疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。

 ・ヤコブの手紙1章12節
 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
 (新共同訳:試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。それを忍びとおしたなら、神を愛する者たちに約束されたいのちの冠を受けるであろう。)
 試錬を耐え忍ぶ人=試練を忍耐する人
 試錬を耐え忍ぶ人は、さいわいである。
 Beatus vir, qui suffert tentationem,
 tentationemは、英語でtemptation(誘惑)と言う意味だと言う。
 【TEV】:Happy are those who remain faithful under trials, because when they succeed in passing such a test, they will receive as their reward the life which God has promised to those who love him.
 【NKJV】:Blessed is the man who endures temptation; for when he has been approved, he will receive the crown of life which the Lord has promised to those who love Him.

 引用文献
 ・日本聖書協会の新共同訳聖書

 ・日本聖書刊行会の新改訳聖書
 ・J-ばいぶる 1st 2000 CD-ROM、日本コンピューター聖書研究会(いのちのことば社).
 ・J-ばいぶる 2nd for Win Ver.2.0 CD-ROM、日本コンピューター聖書研究会(いのちのことば社).
 ・J-ばいぶる 3rd for Win CD-ROM、日本コンピューター聖書研究会(いのちのことば社).
 ・パウロ秋元:祈りは聞かれる 1、み声新聞社、2011年10月26日 第2版第1刷発行.
 ・パウロ秋元:祈りは聞かれる 2、み声新聞社、2011年4月1日 初版第1刷発行.
 ・パウロ秋元:祈りは聞かれる 3、み声新聞社、2011年6月26日 初版第1刷発行.
 ・パウロ秋元:祈りは聞かれる 4、み声新聞社、2011年7月17日 初版第1刷発行.
 ・パウロ秋元:祈りは聞かれる 5、み声新聞社、2011年11月1日 初版第1刷発行.
 ・ジョージ・ミューラー 著作:祈りの力、マルコーシュ翻訳委員会 翻訳、マルコーシュ・パブリケーション、1993年10月15日発行 、ISBN4-87207-125-C0016.

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